教え

総戒名について1


我々は、総戒名というお札を先祖供養の基本としてお祭りしています。

ご恩師は総戒名について、「先祖の塔として、一切の塔(万霊の塔)として祭るべきものだ」とその重要性について説かれています。われわれにとって、我が身を祀る根本的な祖先の塔、万霊の塔と言えます。

惣戒名

総戒名は先祖供養の基本です。一般に行われている位牌だけの先祖供養では足りません。

その先祖も親があって生まれてきたのだし、その親にもまた親があります。また、父方の先祖だけが先祖ではありません。母方の先祖だって先祖なのです。先祖代々に、またその親族有縁の霊に、供養が通るような祭り方をしなければなりません(祖先代々其の親族有縁諸精霊)。

先祖は、さまざまな人々、さまざまな生命と関係を持ちながら生きてきました。お世話になったり、ご迷惑をおかけしたり、恨んだり、恨まれたり…。そこに因縁も発生しているのです。特に、先祖がご迷惑をかけた霊に供養の通る祭り方をしなければ、先祖供養の成果も出てきません(障外の霊)。
また、われわれや先祖の血肉となった霊や関係のあった畜類の供養も大切です。虫類も供養を要求します。これらすべての霊を六道の苦しみから救い上げる法名が、総戒名の真ん中の部分です。

位牌があろうがなかろうが、本家分家にかかわらず、自分自身で自らの先祖の供養をしなければ、神仏より守られません。またこの総戒名がないと、神仏の説く、先祖が喜ぶ、本当の意味の先祖供養ができないのです。
先祖供養は、親子が和楽できる根本です。総戒名を祭り、先祖と子孫がともに救われるべき道を歩みましょう。

総戒名(ふりがな)

総戒名(ふりがな)

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ご恩師は総戒名について、「先祖の塔として、一切の塔(万霊の塔)として祀るべきものだ」とその重要性について説かれています。われわれにとって、わが身を祀る根本的な祖先の塔、万霊の塔と言えます。

  • 大乗とはすでにわが身である
  • ……私自身が大乗によってできている。
  • わが身を拝むことは大乗を拝んでることと同じだ……

ご恩師ご法話

先祖と一口に言いますが、とてもそれは私どもの想像のつかないたくさんの人が先祖にいなければ、私どもの体はできてこない。その数字を少しばかり述べてみたいと思います。

まずこの一個の私です。(両手を上げて)この両方が両親です。父、母です。この父、母にまた父、母がいる、よろしゅうございますか。兄弟も何も言いませんよ。
ただ両親から両親を計算した数を私は発表しようと思います。ちょうどある晩寝られませんから、どのくらいの先祖があるか、直系だけでどのくらいの両親がおるのか、ということを調べますと、概算だけをいたしまして、ここに申し上げますが、三十六代目、よろしゅうございますか、三十六代さかのぼりますと、その両親から両親だけで、兄弟とか従兄弟、再従兄弟というものは別ですよ、こうやってこっちの母の二つの両親、こっちの父の両親だけを指折って三十六代前にさかのぼりますと、なんと驚くなかれ、約七百億人になります。七百億人ですよ。七百億というと、今の地球全体の人類は二十億しかいない。二十億です。七百億は約その三十五倍。どうです、皆さん。両親をそれからそれとつたっていっただけでも、三十六代目には七百億たらずの両親があるわけであります。先祖があるわけであります。これに兄弟その他をつけましたならば、膨大な数字になる。

三十六代というと、どのくらいの年代にさかのぼるかと申しますと、まず源頼朝の鎌倉幕府にさかのぼるとたいがい三十六代になる。年数において約八百年さかのぼると、私たちの直系の先祖が七百億あるわけであります。しかもそれが夫婦の両親になりますと一千三百億、少なくとも一千三百億以上の両親があって、今日、私というたった一人がここに残っておるのであります。実に膨大な数でありませんか。これでも先祖を祀らないでいられますか。
実にすばらしい数だ。

ですから仮に法華経という仏典を見ますと、お釈迦様は「恒河沙のごとき衆生」と言う。「恒河沙のごとき衆生」とは、まるで大河の中の、砂の数のように多いということです。そういうことを申されておりますけれども、お経の上から申しますと、まことにお釈迦様は法螺を吹いているように思える。しかし、こうして両親だけを調べてみただけで、私どもの両親だけで実に七百億たらずであります。夫婦の両親を尋ねれば一千三百から四百億くらいになる。
どうです。この数。しかも八百年さかのぼって、です。もしこれを三千年にさかのぼったとしましたならば、もうすでにソロバンにも何にものるものではない。これだけの先祖を喜ばしたならば、どれだけ私どもは守られるかということを考えましただけでも、先祖を喜ばすということは、私たちの本当の幸福のためであるということができるのであります。


戸次貞雄講演会 昭和27年8月10日 福島新開座にて

総戒名について2

小さい総戒名(縮小版)について

総戒名(従来版と縮小版)

総戒名 左:従来よりのもの
縮小版(23.2㎝×16.9㎝)と封筒

平成23年より、今までの大きさの総戒名のほかに、縮小版の総戒名が出されました。

施設や下宿や寮など、お祭りする場所が狭い場合などにご活用ください。

なお、この総戒名も一年に一度祭り替えます。

総戒名の歴史

昭和初期、久保角太郎氏・小谷キミ氏達が、
戸次貞雄の教えに従っていたときの小谷家法座の写真

『霊友会史』下巻で「昭和5年5月頃に撮影されたと思われる」とされる小谷喜美氏と小谷法座の写真

惣戒名について

『霊友会史』下巻に掲載された、小谷法座の写真について説明します。神仏混合形式で、現在の霊友会より、普明会や自修団の祭り方にむしろ近いものと言えます。またこの写真には、我々がお祭りしている総戒名の一片が、写し出されています。

やはりその総戒名も、「教菩薩法の一片を覚得」し、「仏所護念法の不備を補い教菩薩法を開示」した結果の、その代表的成果のはずです。特に障外事(しょうげじ)は、教菩薩法のあらわれです。
障外事について述べれば、仏説観普賢菩薩行法経の障外からきた言葉です。一般では悟りの境地などの意で使用されますが、ここでは戸次独特の解釈で、障礙(しょうげ)の意に近い障(さわ)り(怨む霊)の意味で使用しています。
『妙皇道報』に詳しく記載されていますが、要するに、怨む霊に対する懺悔という教菩薩法の教えのあらわれです。

この写真に写された総戒名について、『霊友会史』(下巻 P373 、 P377 )では、
「どちらの紙札にも『小谷家祖先代々』の文字が見られる。そこから推測して、のちの“総戒名”の原型ではないかと考えられなくもないが・・・」
「霊友会でいう今日の“総戒名”と昭和四、五年頃のものとでは発想に共通性が見られるものの、思想的成熟度、それにともなう形式は今日のものとまったく異にしている。
今日の霊友会のそれは、一見して双系の先祖供養であることを読み取れるのであるが、当時のそれは違う。
いずれにせよ、これ以後、角太郎は“青経巻”の編纂に着手したのと同様に“総戒名”を現在のような方式に切り替えたのであるが、それはいつ頃、どんな理由によるところかは分かっていない。この点も今後の検討課題の一つである」
と説明されています。


このように霊友会では、この総戒名に関しても、その教えの発展とつながりを説明できていません。 できないからこそ、自らが昔祭っていた総戒名に対して、
「形式は今日のものとまったく異にしている」
とか、
「“総戒名”を現在のような方式に切り替えたのであるが、それはいつ頃、どんな理由によるところかは分かっていない」
などと述べているのです。

霊友会では、教菩薩法の一片を覚得したのを久保としますが(霊友会史年表)、覚得した教菩薩法は一片なのですから、それが完成するまでの過程も、自らの教えの中に、明らかに説明できなくてはなりません。そうでなければ、覚得し、開示した教菩薩法を捨てたことになってしまいます。久保が自身で覚得し、自身が説いた教えならば、必ずその教えの展開は、霊友会の教義の中に明らかになるはずです。「まったく異にしている」ものに「切り替えた」では、もし久保が教菩薩法の覚得者ならば、久保が覚得した教菩薩法の一片を完全に捨てたことになります。

また、「どんな理由によるところかは分かっていない」と述べていますが、それは明らかに、霊友会が、真の教菩薩法覚得者を誤った結果であり、結局それは、霊友会が戸次の教えから分派した証拠を、自らが示しているのです。「思想的成熟度」など、独立分派した後の総戒名の形状・形式の変化を進歩と見るか退歩とみるか、これは宗教的見解でしょうが、いずれにしても教義的に見れば、霊友会が、戸次の教えから独立分派したという事実は動かせないのです。
一方、戸次の教えを受け継ぐ者にとっては、その総戒名の説明は簡単です。“障外事”を含めその総戒名は、意義の進展はあっても、まさに現在、我々が祭っている総戒名の一片なのだからです。


※ 総戒名にある仏所護念唱祖と南無西田常不軽無学大士について

戸次貞雄は、仏所護念の不備がある程度補われた段階で、西田常不軽無学大士について、仏所護念流布者・主説者から、唱祖としています。前者の仏所護念流布者・主説者などの立場は、久保角太郎の流布者や分別広説者とは違い、教祖的な意味合いも含まれるものと思われます。しかし後者は、唱祖であっても、もはや教祖ではあり得ません。それは、仏所護念の完成度による判断です。仏所護念の教祖を西田常不軽とし得ないまでに、その仏所護念は補われ改新したからです。


(当教団出版物 「戸次貞雄と霊友会」より抜粋)