教祖 戸次貞雄[1897~1965]

日蓮の姿と法華経の利益

戸次貞雄 説法録【音声付】(昭和35年5月9日)


下記の戸次貞雄の法話をお聞きください。

【 昭和35年5月9日 ご恩師法話 】

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実に、法華経というものを行ずる者は、容易でない。と同時に、まさしく、あの日蓮の勇気をしても、難解難入といって、最後まで闘われた。あの姿を見るとき、日蓮の曼陀羅によって私どもが喜びを得られるようなことは、絶対にない。どれほど、皆さんが妙法蓮華経を唱えられようとも、日蓮のあの姿を見ただけでも、何で私どもが幸福が得られましょう。

それは、小さな病気や、小さな災難ぐらいはよける、ということは、なぜそうしてあるかというと、まるっきりその利益がなかったならば、神はいない、仏はいないといって、その信仰を捨てさせなければならぬ。故に、いささかでも利益を与えてあるのであります。

釈迦は死ぬ三月前に、
「俺はもう、あと三月で死ぬぞ。お前たち、尋ねたいことがあったならば、今のうち尋ねろよ」
と言われたとき、「五欲を断ぜずして……」ということは、夫婦を夫婦別れをし、一切の財産をなげうって頭は坊主に丸める、男も女も。そうしてついてきて、その人間性というものを滅却しながら生活した弟子どもが、あまりの苦しさに、
「どうしたならば、夫婦生活しながら、親子一緒に居ながら、喜び合える方法がありますか」
と言ってお尋ねしたのだ。【※注1】

 

お釈迦さんが死ぬ三月前だよ。お釈迦様が生きていてだ、信者にそれじゃ、現実に夫婦でおりながら、喜びを与えたという証拠がないから、五欲を断ぜずして、なんとか夫 婦、親子でおりながら、喜ぶ方法はありませんか、と言って、尋ねたのだ。

それはもう、妙法蓮華経を説かれたあとの諮問(しもん)です、問い合わせです。【※注2】釈迦の生きている時でさえも、それが家庭的に現れず、利益をもらえないから、弟子たちが、どうすれば五欲を断ぜずして喜び合うことができましょうか、と言って尋ねたのだ。これだけでもだ、日蓮の曼陀羅ぐらいで助かる世の中ならば、何も文句はない。と、大きく本当は言えるのです。

日蓮どころじゃない、日蓮どころじゃありませんよ。キリストは、みずから預言の中に生きなくてはならんといって、逃れられるものを、十字架に架かられたのだ。それでもなおかつ、世を改め、世を喜ばしめるということはできないと、自分で、あの聖書の中に告白をされておる。そうしてだ、自分の身を十字架に架けられることも分かっていながら、「神の国と神の義を求めよ」と、皆に預言をして亡くなられた。どうです。

もし、天国に入りたいならば、われのごとく十字架を負え、とこう言われた。どうして在家で喜びがありますか。絶対に、世界の宗教で、在家で喜べる宗教というものはありません。もし、そういう宗教があるならば、これは、私どもを欺まんするところの詐欺のことばをもって皆を操り、おさい銭をもらっているのだ、とはっきり言うことができますよ。

そういう考えのもとから出発して、ここに私は、在家宗教というものを作り上げていきつつある。まだ完成はしません。いかなる聖者も、いかなる賢人も、哲人もできなかったのだ。釈迦さえもできないものが、わがまましながら一杯飲んで都々逸でもうなりながらやっている司様だもの、どうしてアンタ、そう易しくはできませんな、こりゃ。けれどもだ、みずからがやって、喜べる恵みを俺は引き出そうと思っているから、やる。都々逸もうなりゃあ、後家さんだから、ときには四つんばいになるかもしれない。

どうだ皆さん、実証なき宗教であるならば、必要はないのだ。ところが実証は持っています。しかし、完全に皆さんが安心のできる、というところまでになるには、容易でなかった。昨年の富士山中において、はじめて、その用意ができましたが、いまだ整理ができませんので、少なくとも来年の三月ぐらいまではかかります。それ以来は、それ以後は、必ず皆さんを喜ばせる神通を、誠があるならば、私は皆に授けるよ。

ところが俺は、あんまり授けすぎたものだから、親不幸な子どもばかり出来ちゃって、霊友会とか、孝道会とか、立正佼成会なんと、俺をだしにして、もうけるやつばかり生まれたから、これは申し訳ないことだと思って、一生懸命俺は、夜中になると起きておわびをしているのだ。知るや、知らずや。

だから、どうも俺も、皆からおさい銭をもらいたくないのだけれど、こうやって、暇かきしなくちゃならんから、日当だけは、皆がくれんとな。汽車賃もよこさなきゃ、俺は、横浜まで来られないものな。それだけは忘れずによこせやな。

だから宗教の本質というものを知って、皆さんに私は勧めているのだ。勧めていたってそうだよ、俺たちの教団でもって、何々を信仰しちゃ悪い、そんなところに入るな、なんてことは言わないのだ。自分の先祖がお世話になったお寺を大事にしろよ、自分の生まれた氏神様を大事にしろ!必ず俺は利益を授けるぞ!と言っているのだ、どうかね。そうかといって、俺が、そんなこと言ったからって、神主さんからお布施もらったり、住職から、「司様、それじゃ、これお布施上げます」なんてもらったことはねぇや。その理論が分かりゃいいのだ。その理論を、私はいつも道報の上において、説明をしておる。だから道報だってあれは、講義録なのだからね。実際、宗教講義録なのだから。実証談なんてものは、ありゃね、小さいものしか出しちゃおらんよ。


※注1
 仏説観普賢(ふげん)菩薩(ぼさつ)行法経に、
「仏、……重閣講堂に在して、 もろもろの比丘(びく)に告げたまわく、却って後三月あって、われまさに般涅槃(はつねはん 入滅)すべし」
とあり。そのとき尊者阿難、長老摩訶迦葉(まかかしょう)・弥勒(みろく)菩薩の三大士が異口同音にして、
「世尊、如来の滅後にいかにしてか衆生、菩薩の心を起こし、……いかにしてか無上菩提(むじょうぼだい)の心を失わざらん。いかにしてかまたまさに煩悩(ぼんのう)を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得、父母(ぶも)所生(しょしょう)の清浄の常の眼、五欲を断ぜずして、しかもよくもろもろの障外(しょうげ)の事を見ることを得べき」
と尋ねた。

※注2
仏説観普賢菩薩行法経は、法華経二十八品のあとの「結び」とされるお経。

         万霊殿/正聖閣