教祖 戸次貞雄[1897~1965]

私の体に感謝できる私を作れ

戸次貞雄 説法録【音声付】(昭和34年3月29日)


下記の戸次貞雄の法話をお聞きください。

【 昭和34年3月29日 ご恩師法話 】

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…話がありますけれども、根本的な日本の尊さというものを少し知っていただきたいと思います。そうしますと、この大乗とか小乗とかいう言葉があります中で、何で大乗でなければ本当の喜びというものが得られないのであるかという訳も、自然にわかってくると思うのであります。

まず、私が皆さんと共に考えなくてはならんことは、宗教がたくさん世界中にありますけれども、在家で、本当に喜べる教えというものはないのです。といって、それじゃ出家をし、尼さんになってみて、それで真実の喜びが、はたして得られたかと言いますと、皆、惨澹(さんたん)たる苦心のもとに修学をしつつ、なお、得る所まで行くことができなかったというのが、まず、世界宗教の現状です。

その中を、夫婦相和してお互いが、ここに一家というものの中に、喜びを与えていくという道を開いて、在家宗教と唱え始めたのでありますけれども、実際にこの仏典を眺めましても、ご存じのとおり、お釈迦様は、われわれを五苦道者とおっしゃっている。五苦道者というのは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、これだけの五つの苦悩を持っている人間界であり、同時にまたご存じのように、人間離れをしなくちゃいけない、三界(さんがい)は火宅のごとしと言われているわけです。

ですから、その火宅の中におって私どもが、法の利益を得て喜んでいくということは、正に仏法の上においても、これは許されておらぬ。また、キリストのほうからいきましても、そのとおりであります。生まれながらにして、すでにわれわれたちは、罪人と言われている。「汚れた、なんだちの罪を贖(あがな)っている」そして、「われの清き血によって天国に連れて行くぞ」ということを言われております。そのとおり、この二大聖者が、まったく人間のこの世界をも穢土(えど)と決めつけておる。その中で、まったく助かるという道が説かれてある道理は、ないのです。


法華経はただその中において、こういう法律を定めて、こういうふうにすればこういうふうな報いを受けるぞと、善悪両用の報いに対する簡単な説明をされているのが法華経です。

その中で、最後のいろいろ末世を救うという上における、その法華教の約束というものは、ご存じのように毎日拝んでおられる普賢菩薩勧発品、あの二十八番でなければこれは、現の果報・現の福を与えるということはできない。それも、普賢菩薩の勧発でありますから、仏説普賢経という普賢の行法に入らなければ、これは、法利というものは得られない。その普賢経の中でも、しからば詳しくそれを説いてあるかと申しますと、詳しく説いてあるのじゃない。ただ、われわれたちが六根清浄になるべき気構えを説かれてあるだけで、気構えは説いてあるが、その清浄になる道すがらというものは、何も説いていないのですから。

「略して説かん」と言われておりますから、その略された所をしっかりつかまえて、そうしてこれを、この地上に出さなかったならば、皆さんに本当に現の果報・現の福報を得させることはできないわけです。

それはしからば、どこにそうしたのが、その道はあるかということを、まず調べてみる。言うまでもなく、「東方の浄妙国土」と言われている、これは日本でなければならない。そういう縁を、いわゆる持っているがために、日蓮もこれに出て、法華経の国は日本であるという意義から、「われこそ、お釈迦様の本当の使者であるぞ」と言って大獅子吼(だいししく)をされたわけである。

ただそれは、そういう約束がある国柄であるという縁、法律はかくのごとく出来ておるぞと。この法律を守ると、仏に近づくことができる。仏道を成ずることが早いんだ、という宣伝に来られたわけです。ですから上行(じょうぎょう)自体を、つまり上行と申しますと、日蓮様が、「われこそ上行である」と言われました上行ですが、これは上行、安立行(あんりゅうぎょう)、浄行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)というこの四人の大導師がおられて、そして法華教を宣伝するということになっているわけです。

利益をやるということは書いてない。利益をやるのは法華経の中でも、薬王菩薩であるとか、あるいは観世音菩薩であるとか、また普賢菩薩の勧発によって菩薩界に行くことができるということが、書いてあるだけでありまして、日蓮を拝んだから利益をやるということは、あの中には約束されておらぬ。ただそういう仏縁があるということを知らせにこられた大導師なるがゆえに、これを尊敬して大師として、礼拝するだけのものである。でありますから、日蓮の書いた曼陀羅(まんだら)で、五百年の間はその宣伝役を務めたために、こういうふうに利益はあるんだぞ、という一部の利益だけは与えておったことは、間違いない。

それは全体的のものではない。いわんや、もう末法において今日は本当に今年は、大頂点であって、ご存じのように、お釈迦様の二千五百年祭が今年ある、来年こそ二千五百一年である。「後々の五百歳」のいよいよ終りを今年告げて、来年は正法の光を受けるところの第一歩であるということが、初めて言える時です。

そうすると後々の五百歳におけるところの利益というものは、もう普賢菩薩の行法経に頼る以外にはない。それに頼るには、いわゆる「東方の浄妙国土」と称する法華経の国柄であり、また実にその「大乗の種がある」という日本のこの神道の中から、われわれが何物かをつかまなかったならば、これは利益をもらうことはできない。そういう、いきさつになっております。

本来ならば、仏教として出家宗教でなければ、大乗を保つということはできないのです。キリストを信じ独りでおってすらも、なかなか天国に行くことができない。また出家をしても、そのとおりであります。まして大乗というものを保つということは、これは容易ならぬことである。その中をここにわれわれたちは、わがままを言いながら、いささかでも法利を受ける道が出来たということは、幸せな時に生まれ合わせたものです。それも無量義経の中に幸せな時代になるぞということを、はっきりと証明されております。

それあるがために、私も今だと考えまして、できないながらも今日までその道筋を作ってまいったわけでありますが、私自体もまだ、まだ足りない。これからなおいっそう最後まで、その道によってどういうふうに現じていかれるか、ということを証明して、去っていきたいと考えておるわけであります。

これは法の動きの次第を、今物語ったわけです。その法を受ける上において一番大切なことがある。これは菩薩行をやる上における心構えという上において、今まで皆さんに説かなかった大切なことがある。加藤先生が帰られてその一端をお話になったと思いますけれど、何であるかというと、ごく身近な私自体というものをもっと見詰めた私にならなければいかん、ということは、今月号(RDG報)に予告いたしましたように、「私の体に私が礼の言える私を作れ」という題目で、来月から連載していきますけれど、これは詳しく述べていきますので、少なくとも三年間くらい連載されるようになるんじゃなかろうかと思います。それを今晩簡単に、かいつまんでお話をして、そして要を得てもらいたい。

私自身が、実に私で動いてるんじゃない。まったく万象の支えによって動かされている。片ときといえども、その支えのない私が自由な活動というものは、出来る道理はないのです。いかなる人でも、指一本といえども、こうやって動かすというその自分の気持ちに合わせて、その支えられてる恵みによって動かされている。それなくしては動かないということはもう、神経痛であってみたり、中気であってみたり、何かしらそこに一応病気でもしてみると、そうだということが皆わかるようになる。

仮に私あたりも、口じゃ酒を飲む。ところが胃腸のほうじゃ飲んでくれるな、そんなに飲まれちゃたまらぬ、同じ体で、自分の同じ体でありながら、自分で自分を制することができないでおります。飲みすぎ、食いすぎ、まず第一に胃や腸に自分のものであるという胃腸にさえも、本当にご苦労をかけている。そうすると、それは天地から恵まれて、動かなければならぬ胃腸を動かさないということをやっているだけでも、私どもは、自分の体に自分が罪を作っている。

まず第一に、感謝しなくてはならんのは、わが体なのだ。ところがそれを支えている私というものを考えてみると、万象ことごとくが私を支えている。それはもう有象無象(うぞうむぞう)と言いますけれど、形のないもの、形のあるもの、一切が私の体を支えてくれている。

これはもう申すまでもなく、栄養剤あたりの効能書を見ると、「何が足らん、これを補う」と書いてある。みんな動物、植物、鉱物、そういうものの支えがなかったら、この体を構成していくことができない。一切のごやっかいになっている。そうして私という体を与えられて、私としての喜びや悲しみを守っている。

いつの間にか貸家住まいと言うけれど、貸家に対する考えが、まるっきりまちがっている。もっと自分自身を正しく愛するという気持ち、自分自身に感謝をするという気持ちがなければならぬ。

いつかこの地上を去ってゆく。その時再び、この体、この顔この姿に相会うことができない、みんな。別れが悲しくても、別れていかなくてはならぬ。愛する妻、愛する子どもなんて言ったって、もう一たびその体を失った以上、愛もヘチマもあったものじゃない。その相愛しうるその体の原動力というのは、まず自分自身の体だ。それに対する感謝というものがない。

それを教えた聖人もないのですから、あたりまえのことであるけれども、まず愛とは、そこから発しなくてはいかん。そうすれば夫婦の間柄だって、「何だ!」なんて、お互いが角突き合いするということも、あってはならぬはずだ。

お互いに天地から支えられている。お互いがその恵みによって生かされている私ということを考えたならば、互いに尊敬する以外にはない。尊敬し合う以外にはない。実にこれは尊い体です。そこまで考えて自分自身の体を大切にすることが、本当の正しい愛である。

またキリストが言われるように、「隣を愛せよ」と言われる隣。自分の体が魂の隣だ。それさえも愛することができなくて、そして他を愛せよなんて言ったって、本当の愛であろう道理はない。他を愛する真実性というものがあるならば、まず自分の魂の隣であるこの体を愛することを先にしなくちゃあ。それは、決してそう思っておらない、皆。

そこに私どもが、まだ、つまりお釈迦様も時代がこなかったから説かなかったに違いないが、「人間なんか捨ててしまえ」と言われている。キリストもまたそのとおり、「罪汚れている」なんて言われている。確かに汚れているに違いない。ということは、ただいま申しますように、事実、自分というものを愛するその精神から立ち上がった愛でなければ、自分が尊いから他も尊い、それが自尊心、その自尊心のない者で愛があろう道理はない、ということになる。

その私自体をよく考えると、一切の万象のお恵みを受けている、形あるものなきもの、ことごとくにお世話になっている。鉱物までも、お世話になっている。体自身がそのとおりという考えをすると、石ころでも何でも皆兄弟分であり,魂のあるものである、と言うことができるわけです。それで今こそ迷信ということを言われませんし、あるいは、偶像礼拝ということも、まことに声をひそめましたから結構でありますけれども、日本の信仰あたり、まるで偶像礼拝であるし、民俗宗教である、とこう言われている。

それは誤った見解をもって、その宗教を解剖しようとするから。人間ばかりではない、生類ことごとくが万象のお恵みという支えによって、そうして生活をしている。その万象の代表的なものをお祭りしているのが、日本の神道であり、石に至るまでもちゃんとこれはお祭りされてあるし、また恵みある空中もお祭りされてある。もちろんご存じのように、雷さんだってその一部として、ちゃんとお祭りされている。

これは日本神道の非常に尊い所であり、大乗の種であるということを言いうる。それを尊敬し、そして所を得て喜び合ってもらう、喜んでいき合おうという心がこの日本の神道なのです。地之神三十六神なんて言われますけれど、地之神どころじゃない。実に、空中における動きさえもりっぱにお祭りしてあるということは、これは古事記が証明をし、あるいは日本書紀が証明すると言います。

それはいずれ、皇室を尊とばんがためにそういうことを作らせたと言っても、それでもかまわぬ。イザナギ・イザナミの尊(みこと)がことごとくの、そういうわれわれの生活に必要な万象を、神生みにお生みになったということを、まず取り上げて書いておる。

書いたとおりのものであれば、それでよろしい。その歴史こそわが日本の歴史であるぞ、と言って残された天皇も偉い。イザナギ・イザナミの尊がおられなくてもよい。また天皇も、おられなければおられないでいい。そういう歴史を書き上げさせられて、われわれ国民もまたそれを奉載して、神道として各村々、あるいは部落、また山の頂上、奇岩、奇石ことごとくに、しめを張ったりして礼拝をしている姿を見る時、これはその、み旨を奉持して今日までやった、りっぱな民族であるということが言える。

歴史を何も調べる必要はない。事実の形が、それだけの内容は知らずして、なおそのわれわれを支えてくれる万象に対する感謝の礼儀を尽くしておったということが、わが日本の神道です。しかもその中において、石上神宮で、つまり神格に到達しえたものは、神の座に座るべき、「み霊鎮め祭り」というものがある。私も数十年来これをやってみて、ことごとくのみ霊が、これによって喜んでいるという実証を得た。

この法こそキリスト教にもなければ、まったく仏教にもない。なるほど戒名を直して、そして仏様にしようという法だけは今度出来た。また昔から有りもしました。しかしながら、その実証というものがなかった、今度はりっぱに実証がある。私自身だけの実証じゃない、皆さんが精進すれば、あるいは夢の中に、あるいは礼拝している中に、姿をもって示されるという実証を得ることができるようになった。

それはひとえに何であるかというと、まったくみ霊鎮め祭りというこれは、神の世界に、この魂を受ける祭りがあるからです。仏の世界で救われたみ霊はもう仏と同じように、結局これは菩薩行という昔の出家生活をした人から救われたんだから、そういうふうな世界に行かなくちゃならぬから、穢土としてこの人間界に再び手を出して、心配をして皆さんを救うということは、これはできない。それを神の世界が、つまり人間界と交渉して、われわれをよしにつけ、あしきにつけ守っておられる。その中に先祖が飛び込んで、子孫を見守ることができる、ということになったのは、まったく日本のこのみ霊鎮め祭りのお陰です。

でありますから、このイザナギ・イザナミの尊の神生みという所を、皆さんがごらんになってみるとよくわかります。一切万象の誠意を尽くした所をお生みなっておる。それを拳々服膺(けんけんふくよう)して、そうして今日までわれわれの先祖が本当に、ただいま申し上げましたように、各親、どこに行っても氏神様のない所はこれはない、それ以外にいろいろな方々をお祭りしておる。これが実に大乗の種である。

「みずからが尊い体である、支えられている体である」ということを知った時に、この日本神道の今の神生みの神々の、いかに尊いかということを、自分自身が体験している日常の生活なのです。そこまで考えておらない。そうするとこれは人間ばかりじゃない、生きとし生けるものことごとくがそのとおりです。その光を被らずして生活というものはできていない。それを無言の中に、きちんとそれだけのお祭りをしてきたということは、どこの世界にもない、日本だけです。

お釈迦様が作られた如来、キリストがいう天と言ってみたところで、それは拝ましめんがためにおるようなもの。拝むために如来や神たちがいるんでなく、道を行う者をして守らしめんがために如来の世界を作り、神の世界も作ったのが、これが宗教の出来たところの根本儀なのです。それを今までは、ただ拝ましむるためにあるように書いてある。その原動力はそれは何であるかというと、ただいま申し上げましたように、自分自身の体を拝んでいる。実にそこに日本神道の尊さがあり、これが大乗の教えである。イザナギ・イザナミの尊なんか、おったんでも何でもないと言う人もあるかもしれないけれど、いてもいなくてもよいのだ。天地にその心が動いていたればこそ、そういう方々を神として祭った。

また、神生みが出来たんだと先祖はこれを書き残して、そしてまた、天皇もこれをお用いになっておいて、われわれ先祖から今日までそれをやってきたという事実がある以上は、何を歴史家たちがあるとかないとかと言う必要はない。そこまでのりっぱな日本民族の民族道というものを、しっかりとつかまえなければいかん…。

万霊殿/正聖閣